映画「手塚治虫のブッダ -赤い砂漠よ!美しく- 」

今、劇場版を見てきた。いやー、キツいな。予想範囲内か、それ以上か。
先に擁護意見を追加。前回書いたとおり、名作長編の映画化は成功条件が非常に厳しい。(その点は、あとでわかったことだけど今作が3部作であることで多少はカバーされたかな。今作ではブッダ=シッタルダが悟りをひらくところまで行ってないが、そこは次回以降で。)もうひとつ。実は手塚治虫の作品の作り方自体に問題があると自分は思っている。氏の作品はコマ割り含めテンポが非常に良いので読んでるうちは気にならないが、イベントをひとつひとつ検証していくと、わりと不明なところ、気になるところ、ツッコミどころか出てくる。で。原作のコマのテンポでアニメ化すると、そこがスカスカになるし、まっとうなテンポで表現しようとすると、ツッコミどころがみるみる顕在化してしまうのだ。

そういう事情なので、脚本・演出は苦労したのだろうな。今作でもいろいろ展開を変えたり加えたり、苦心の跡は見える。それにしても「やっちゃいけないだろ」という点が、そこかしこに目に付いた。先に触れたとおり原作は速読なので本当はもっとあるのだろうが、ここでは具体的に2つ書いておきたい。
1つめ。主要キャラであるチャプラを救うため、僧侶のナラダッタが、憑依の技をもつ少年タッタに命じ、動物たちに次々と憑依させる死のリレーを敢行させ、遠くにいる自分の上司に薬の作り方を問う場面がある。結果として薬の処方は得られるのだが、ひとりの人間の命のため、いくつもの動物たちの命を使った罪でナラダッタが畜生レベルに落とされるという名シーンがある。当然再現されるのだが、映画版では、この死のリレーはタッタ自身のアイデアで、ナラダッタはそれに同意しているだけなのだ。これはキツイ、ナラダッタがかわいそうすぎる。そしてもうひとつが本当に致命的。タッタはシッタルダが生まれる前に初登場。その後シッタルダは成長し、結婚して子供まで生まれているというのに、何の説明もなくタッタは最後まで子供のままなのだ。なぜ?どうして?原作を読んでいればすぐわかる。もともとたった1年ぐらいの物語とシッタルダの長い成長物語を映画では同じ時間軸に並べて展開してしまったので起きた矛盾なのだが、矛盾そのまま放置ってのはなぜなんだ?どう超展開を考えてもフォローしきれませんよ。タッタはこの物語のラスト付近までほとんど出ずっばりの、それこそチャプラなんてどうでも良くなるほどの重要キャラなのだが、次回作ではしれっと大人に成長させて登場させるつもりなのだろうか?まいったな、こりゃ。